2016.01.10 Sunday
道の先
美術批評の坂崎乙郎は、大学でドイツ語の授業も担当していたが、たいていは語学から離れて脱線ばかりしていたようだ。
当時彼の授業を受けていた人が、自分のブログで坂崎の余談を思い出して書いているのを見つけたので、ここにいくつか紹介しよう。
― 英語も中途半端な状態で第二外国語を学ぶ必要があるのか、という議論もあるが、異なる言語を覚えるというのは、それだけ自分の中で思考形式が増えるということ
― ドイツでの出来事。バスの扉が閉まる直前、飛び込み乗車をした少年に運転手が、『翼を挟まれなかったかい』と尋ねた。白い息を吐きながら乗ってきた少年には天使のイメージがあった。そんな言葉は日本でバスの運転手は言わないし、また日本語では様にならない
ブログからの引用はここまでで、ここから先はわたしのまとめだが、一つ目の話は一応語学がテーマなので脱線とは言わないかもしれないけれども、自分が教えていることばにしか関心がない教師はこういうことは言わないだろう。残念なことは、今大学で語学を教えている教師はたいてい自分が教えていることばにしか関心がないことだ。
二つ目の話は、授業中の即興にしてはあまりにも美しすぎる、という気がしないでもないが、この日常の1コマの美しさは、日本語からドイツ語の世界を見ているその視点に負っている、というところが重要である。
ブログを書いている人は、「ドイツ語のことはさっぱりおぼえていない」ということだが、これこそが語学教育の醍醐味というものだ。
そもそも大学の授業は、毎回の内容もさることながら、「この人が歩いている道の先には何かあるな」と学生に思わせることが重要だと思う。
話を語学に限ると、結局ことばの学習は「他者」を受けいれる隙間を自分に用意することだ。異文化コミュニケーションというのは、要するに自分が相手を受け入れて変化することで、それには苦痛が伴う。だから、語学の教師はこの苦痛の向こう側には快楽がある、ということを常に学生に喚起する必要がある。この快楽の存在を知っていれば、人はいつからでも新しいことばに身体を開くことができるだろう。
文化人類学の西江雅之は、「教師の仕事は学生の三歩先を照らすこと」といっていたらしいが、こういう務めを果たすことができる教師は今どれだけいるだろうか。
当時彼の授業を受けていた人が、自分のブログで坂崎の余談を思い出して書いているのを見つけたので、ここにいくつか紹介しよう。
― 英語も中途半端な状態で第二外国語を学ぶ必要があるのか、という議論もあるが、異なる言語を覚えるというのは、それだけ自分の中で思考形式が増えるということ
― ドイツでの出来事。バスの扉が閉まる直前、飛び込み乗車をした少年に運転手が、『翼を挟まれなかったかい』と尋ねた。白い息を吐きながら乗ってきた少年には天使のイメージがあった。そんな言葉は日本でバスの運転手は言わないし、また日本語では様にならない
ブログからの引用はここまでで、ここから先はわたしのまとめだが、一つ目の話は一応語学がテーマなので脱線とは言わないかもしれないけれども、自分が教えていることばにしか関心がない教師はこういうことは言わないだろう。残念なことは、今大学で語学を教えている教師はたいてい自分が教えていることばにしか関心がないことだ。
二つ目の話は、授業中の即興にしてはあまりにも美しすぎる、という気がしないでもないが、この日常の1コマの美しさは、日本語からドイツ語の世界を見ているその視点に負っている、というところが重要である。
ブログを書いている人は、「ドイツ語のことはさっぱりおぼえていない」ということだが、これこそが語学教育の醍醐味というものだ。
そもそも大学の授業は、毎回の内容もさることながら、「この人が歩いている道の先には何かあるな」と学生に思わせることが重要だと思う。
話を語学に限ると、結局ことばの学習は「他者」を受けいれる隙間を自分に用意することだ。異文化コミュニケーションというのは、要するに自分が相手を受け入れて変化することで、それには苦痛が伴う。だから、語学の教師はこの苦痛の向こう側には快楽がある、ということを常に学生に喚起する必要がある。この快楽の存在を知っていれば、人はいつからでも新しいことばに身体を開くことができるだろう。
文化人類学の西江雅之は、「教師の仕事は学生の三歩先を照らすこと」といっていたらしいが、こういう務めを果たすことができる教師は今どれだけいるだろうか。